HALI’Sの粗考 ②

粗考という言葉はありませんが、HALI’Sのスタッフ達は常に様々な事を研究したり勉強したりしています。
その一部を皆様に一読して頂ければ幸いです。

アール・ヌーヴォー,アール・デコのガラス工芸作家についての考察

金 井 裕 子

1,アール・ヌーヴォーとは

フランス語で「新しい芸術」を意味するアール・ヌーヴォーとは,ヨーロッパにおいて,1880年代後半に発展し,続く10年間に創造的な絶頂期を迎える美術運動です。

19世紀のヨーロッパ,アメリカでは,急速に進んだ産業化により生まれた巨大な富が,産業都市,商業都市に集中していきました。工場の大量生産方式により,全く新しい労働者階級が誕生し,かつてないほど広範に行き渡る,多種多様な商品が生み出されます。テクノロジー(汽車,汽船,電信)は進化し,コミュニケーションの障害も消えつつあり,社会生活は大きく変化していきました。

しかし,生活の外観を形作るスタイルは変化せず,建物の設計も日用品のスタイルも,古典様式,ゴシックスタイル,ルネッサンス,バロック,ルイ15世(ロココ)様式といった,旧式のスタイルのリヴァイヴァルによるものでした。

マンネリズムを迎えた世紀末のヨーロッパで,新しい芸術を求めた造形運動が,アール・ヌーヴォーです。その根をヨーロッパの古い歴史に埋めていないという点で,アール・ヌーヴォーは前例のないスタイルだったのです。

 この新しい美術運動は,美術家や工芸家に大きな影響を与え,生み出される作品をダイナミックに変化させました。

 ガラス工芸についても例外ではありません。それまでガラス工芸の分野では取り立てて注目されるところもなかったフランスで,短い期間に,一気に高度な芸術的水準に達した素晴らしい作品を生み出していきます。

2,アール・ヌーヴォーの作家たちが求めたもの,変えたもの

 

アール・ヌーヴォー・スタイルの特徴は,自然や植物をモチーフとした,しなやかで流れるような曲線,情感的な表現などです。アール・ヌーヴォーの作家たちは,表現のもととなるものについて,今までの何ものかの模倣ではないものを求めていました。植物的な曲線の表現ひとつにしても,自然界のモチーフの模倣である以上に,生命の根源が出現したようなものであるべきであると考えていたのです。

 自然や植物の描かれ方の変化からしても,アール・ヌーヴォーがいかに革新的なものであったかが見て取れるように思います。それまでのヨーロッパの絵画表現では,キリスト教やギリシャ神話と関係がない植物を描くことはタブーとされてきましたが,しがらみを打ち破る新しい表現がなされていきます。クロード・モネ(1840~1926)は,花を色彩の一要素として表現し,エミール・ガレ(1846~1904)は自然を観察し詩情豊かに描き上げ,また,アール・ヌーヴォーとアール・デコの過渡期の作家であるルネ・ラリック(1860~1945)は,アール・ヌーヴォー期にジュエリー作家として活躍しましたが,それまでのヨーロッパの芸術作品には扱われることのなかったトンボなどの昆虫や,雀などの小動物をモチーフとしたジュエリーを作っています。

 アール・ヌーヴォーの作家たちは,インスピレーションの源泉を,過去の文化や芸術をたどることではなく,自分たちとは文化を異にする造形のなかに求めました。それが,ヨーロッパのスタイルに,ジャポニズム(パリやロンドンを中心とする日本ブーム)を流行させました。日本の美術工芸品に,それまでのヨーロッパの芸術作品には扱われることのなかった植物や昆虫,小動物がモチーフとして使われていることが,アール・ヌーヴォーの作家たちを驚かせます。

 1888年から1891年までの間にパリで刊行され,日本の美術や文化,生活様式を紹介した月刊誌「LE JAPON ARTISTIQUE」は「日本美術のなかの動物」という特集のなかで「(日本の)芸術家は,一本の草でも木の一枝でも全く同じ気持ちをもって把握し,取るに足らない動物を人間自身と同等に扱うのになんのためらいもない」と述べています。日本ではごくあたりまえのことが,当時のヨーロッパでは革新的なことだったのです。アール・ヌーヴォーの作家たちは,未知の日本の植物の形を分析し,自らの美意識のフィルターによる単純化や誇張化をし,作品のデザインに取り入れていきました。

視点を我が国からのものに移すと,1868年に日本が明治維新を迎えてから,浮世絵など多くの日本の優れた美術品がヨーロッパに流出しました。その洗練された技巧の高さが,ヨーロッパの美術家を大いに刺激することになります。

1873年のウィーン万国博覧会に,日本政府は初めて海外の博覧会に正式に参加し,日本の美術工芸品を紹介します。1889年のパリ万博では,日本館には日本庭園や盆栽が展示され,日本の園芸の魅力を伝えます。この頃ヨーロッパに,椿,山茶花,紫陽花,山吹など,多くの日本の植物が広まったと言われています。1900年のパリ万博では,日本館では,法隆寺金堂をモデルにした日本館内部の庭園すべてを大小の菊で覆い尽くした観菊会が催されました。

1900年のパリ万博のジュエリーの展示で,ルネ・ラリックがグランプリを獲得します。アール・ヌーヴォーの全盛時代でした。

ラリックは,ヨーロッパでは「喪の花」とされていた菊をモチーフとした,いくつかのジュエリー作品を残しています。菊を,喪のモチーフとしてタブー視することなく,日本を代表する花の一つととらえたのでしょう。

1900年に熱狂的となったアール・ヌーヴォー・スタイルの流行は,これを頂点に,急速に衰退しました。1904年のセント・ルイス万博では,アール・ヌーヴォー・スタイルは払拭されています。

 アール・ヌーヴォー・スタイルは,ジャポニズムからの影響を主な端緒としますが,その起源は,ヴィクトリア朝のイギリスにあると言われています。しなやかな装飾的曲面に共通するスタイルだけではなく,その基盤となった理論,純粋芸術と装飾芸術の区別を不自然なものとし,日用品の美的水準を高めようとした概念は,やがて誕生するアール・ヌーヴォーの作家たちが目指したものの源泉でもあります。

ウィリアム・モリス(1834~1896)は,芸術家と工芸家の区別をなくそうと努力し,その架け橋となるべく,装飾工芸品の手工芸制作のための共同体「アーツ・アンド・クラフツ」を創設し,装飾美術の改新の先達となりました。アール・ヌーヴォーの美術家,工芸家の多様性の先取りをしていたといえます。

 アール・ヌーヴォーの作家たちは,工芸の在り方を,芸術にまで変えていきました。

ジュエリー作家としてのルネ・ラリックがデビューする以前,フランスのジュエリーが追求していたのは,いかに持ち主の財力を誇示するかということであり,貴石やダイヤモンドのカットとデザインに重きが置かれていましたが,ラリックは,そのような慣習に全くとらわれず,デザインの伝統的な決まりを打ち壊しました。その結果,ラリックのジュエリーは,単なる装飾品ではなく,完全に独立した芸術品であると見なされるようになりました。

 アール・ヌーヴォーの作家たちが変えたことはそれだけではありません。

アール・ヌーヴォーを代表する芸術家エミール・ガレは,ガラスを工芸から芸術へと高めました。それまで職人の仕事と考えられてきたガラス工芸が,作品として鑑賞,収集の対象となり,高価なものとなります。ガレのガラス器は日用雑器ではなくなり,手工業的大量生産という手法が導入されました。晩年のガレの工房には数百人の職人がいて,工房作品としてのガレのデザインを製品化していたと言われています。

制作方法の変化とともに,「作品」から「デザイン」への転換が,近代社会からは求められていたのです。

3,アール・ヌーヴォーの終焉 ~アール・デコの時代へ

 

アール・ヌーヴォーは,1905年になると勢いを失い,アポリネール,コクトーなどのキュビスムの芸術家の誕生や,アール・デコ・スタイルの流行など,新しい世紀にふさわしい美学がそれに取って代わっていきます。アール・ヌーヴォー・スタイルの流行が熱狂的であった故に,その反動のように,次のアール・デコ・スタイルの特徴は,直線的,幾何学的で,情感的な要素を排した知的な構成や表現によるものとなりました。

 アール・デコが最高潮に達したのは1925年,パリ現代装飾美術産業国際博覧会(通称「二五年展」・「アール・デコ展」)が開催された年です。このことからアール・デコは,フランスでは「二五年様式」とも呼ばれています。

 アール・デコの時代,生産の分野でヨーロッパの装飾美術の方向性を決定したのが,「デザイナー」として誕生するヨーゼフ・ホフマンのいたウィーンでした。そして,パリにあった時代の主な潮流は,モード,婦人装身具等の分野となっていきます。

 アール・ヌーヴォーの時代の寵児であったジュエリー作家ルネ・ラリックは,ガラス工芸に転向し,香水瓶を作ります。その作品は,ガレのような一品作品ではなく,量産用の原型でした。その作風には,それまでのラリックのジュエリー作品には見られなかった秩序と簡潔さが見られました。

 1908年頃,コティ香水店が,まだほとんど知られていなかった自社製品用のラベルの図案をラリックに依頼しました。ガラスを用いて構成された当のラベルから,最初の香水瓶意匠を手掛けることとなり,次々と新しい香水瓶が制作されていくにつれて,この分野に一種の革命が起きて,ラリックの香水瓶はパリを埋め尽くすようになります。

 ラリックのガラス工芸品は流行の貴重品となり,ラリックは,香水瓶のほかにも,花器,コップ,ランプ,鏡など,ガラスで制作が可能なあらゆるものを作り,二五年展の際は,間仕切り壁全体までガラスで制作するに至りました。ラリックはガラス工芸作家として,インダストリアル・デザインを実践したのです。

4,アール・ヌーヴォーのガラス工芸作家

○パリ派の代表的作家たち

フランスでは,パリと,フランス東部のナンシーの,二つの都市を中心地としてアール・ヌーヴォー運動が展開していきます。パリ派の美術家で,陶芸家であったウジェーヌ・ルソーが,新しいジャンルとして注目されたガラス工芸に転向し,アール・ヌーヴォー運動の中心的役割を果たすこととなるガラス工芸の先駆けとなります。

●ウジェーヌ・ルソー(1827~1891)

ウジェーヌ・ルソーは陶芸家時代に,『北斎漫画』に影響されたパリの版画家であるフェリックス・ブラックモン(1833~1914)と共作して,1867年にジャポニズムの絵皿シリーズを発表し有名になります。そして,同年に自らのガラス工房を設立し,ガラス工芸に取り組んでいきます。その表現は日本的な造形を追い求め,極めてジャポニズムに傾倒したものでしたが,やがて花咲くアール・ヌーヴォー芸術の萌芽となるものでした。
ウジェーヌ・ルソーは,弟子のウジェーヌ・ミッシェル(1848~1910頃),アルフォンス・ジョルジュ・ライアン(生没年不明),エルンスト=バプチスト・レヴェイレ(生没年不明)などと次々と新しい技法を考案しました。アール・ヌーヴォーのガラス工芸に特有のカメオ・グラスの技法も,彼による考案です。

●フィリップ・ジョセフ・ブロカール(生年不明~1896)

フィリップ・ジョセフ・ブロカールは,古美術品の修復を仕事としていましたが,イスラム美術を研究し,エナメル彩のアラベスク文様の再現に取り組みます。研究の末,イスラム・グラス風のエナメル彩色を完成させ,イスラム風の装飾意匠によるエナメル彩の作品を発表しました。

●オーギュスト・ジャン(生年不明~1890)

オーギュスト・ジャンは陶芸家でしたが,1870年頃よりガラス工芸を手がけるようになります。
当初は透明素地に孔雀や草花をエナメル絵付けした日本風の作品や,ペルシャの花柄模様をモチーフにしたペルシャ風の作品を作っていましたが,後に,ガラスの柔軟な流動感を生かしたローマン・グラス風の多紐装飾作品や,透明色ガラスに発泡剤を混入した素地による東洋風の花器などを制作しています。

  ●アメデー・デュク・ド・カランザ(生没年不明)

アメデー・デュク・ド・カランザは,ムルト・エ・モーゼルのロングイ陶磁工場の絵付け師でしたが,1890年代に入ってからニヨンのアンリ・A・コピエ会社に移り,ガラス工芸を手がけるようになります。
技法は主として半透明の色ガラス素地に分厚くエナメル彩色を施し,装飾モチーフも,日本美術をモチーフとした,孔雀,牡丹,芍薬の花,柿の実などが多くあります。

○ナンシー派の代表的作家たち

アール・ヌーヴォー・ナンシー派は,家具,調度などのインテリア・デザインと,ガラス工芸で広く知られています。

●エミール・ガレ(1846~1904)

ナンシー派の中心的指導者であり,アール・ヌーヴォーのガラス工芸で最も偉大な巨匠といえるエミール・ガレは,父の跡を継いでガラス工場の経営者となりましたが,1874年に自己のガラス工房を開きました。
ガレには,植物や博物学の膨大な知識があり,文学的素養がありました。東洋のガラスと陶器を研究し,自然界の繊細で柔らかな形を表現するようになります。1878年及び1889年に開かれたパリ国際展覧会に,サファイアのような微妙な色合いを帯びた「月光」ガラス,レリーフをかたどったカメオ・グラスを発表します。
やがて素材としてのガラスが持つ潜在的な力に着目し,透明性から不透明性へ目を転じて,色彩と透明度をコントロールして美しい微妙な光の効果を出していきます。表面上の効果のためのエッチング,エングレーヴィング,金彩,エナメル彩,シャンルベ(宝石七宝),ガラスの寄木細工ともいうべきマルケットリーなど,技法を研究,開発して,あたかも油彩画家や彫刻家のように,卓抜した技術と創意工夫でガラスによる造形を試みました。
ガレは,自然や植物の姿を借りて,まさに小宇宙のような世界を作り上げたのです。美しく詩情あふれる作品は,芸術的な創作物として,高い評価を得るようになりました。
工芸家として有名になっていくにつれ,デザイナーとしての仕事の需要が大きくなり,ガレは大規模な製造法を開発して,生産量を増やしていきます。企業の規模を大きくしたおかげで,マーケットを拡大することができ,ロンドンとフランクフルトにショールームをオープンします。そしてついには300人もの職人を抱える事業主となりました。
ガレは,ナンシーのガラス産業に,大きな革命をもたらしたのです。

●ドーム兄弟

兄オーギュスト(1853~1909),弟アントナン(1864~1931)のドーム兄弟は,ガレと同じように父の工房を引き継ぎ,グラヴィール作家のジャック・グリューベルなどの多くの工芸家,美術家を雇い入れ,ガレの作風に極めて近い作品を作りました。
木型や金型を使った吹き込みや,色ガラスの細片を釜のなかで素地に一体化させ様々な色彩の微妙なテクスチャーを生み出す独特の技法ヴィトリフィカシオン,金銀箔や色ガラス片のサンドイッチ技法,グラヴィール,エッチング,エナメル彩色などの技法を駆使した秀作を残しています。
また,ドーム兄弟の工房では,パート・ド・ヴェールの技法による作品にも取り組み,お抱えの職人アルメリック・ワルターによる作品が作られました。
パート・ド・ヴェールの技法は,使われなくなった古代の技法でしたが,1880年代半ばにアンリ・クロが再現したあと,この技法に興味を示した作家たちにより研究が続けられました。ワルターはドーム兄弟の工房でパート・ド・ヴェールの技法を完成させた後,独立し,パート・ド・ヴェールによる小像づくりを始めています。

○パート・ド・ヴェールの代表的作家たち

 パート・ド・ヴェールは,アール・ヌーヴォーの時代に使われたガラス工芸のさまざまな技法のうちのひとつです。フランス語で「ガラスの練り粉」という意味で,ガラスの粉末を型のなかで溶かして焼き上げ,研磨して仕上げる技法です。作品の制作工程に手間が掛かるため,量産には向いていませんが,その反面,形,色彩が自由に表現でき,手の込んだ創作的な仕事をするのには大変向いています。

 パート・ド・ヴェールは,紀元前16世紀頃から紀元前後の頃まで使われていた古代ガラスの基本的な技法でした。吹きガラスが始まる紀元前1世紀後半頃まで,一般的な成形技法として使われていましたが,吹きガラスの技法が主流になるとともに,やがて使われなくなりました。
いったん消え去った古代ガラスの技法は,19世紀末のフランスで,芸術的な表現を求めたアール・ヌーヴォーの作家たちにより,新しいジャンルとして再び開拓されます。しかし残念なことに,作家たちがこの技法を一子相伝の秘伝としたため,後世に一般化されることはありませんでした。

●アンリ・クロ(1840~1907)

 南フランスナルボンヌ生まれの彫刻家アンリ・クロは,パリで美術を学ぶうちに古代のガラスに熱中し,研究の末,1880年代半ばにパート・ド・ヴェールによるレリーフ肖像に成功して,古代の技法パート・ド・ヴェールを復活させました。
1885年頃から自宅で本格的に制作を始めますが,やがてフランス政府の保護を受け,国立セーヴル磁器工場での生産にまで発展します。アンリ・クロの周辺にはパート・ド・ヴェールを自己の技法のレパートリーに加える作家を輩出し,世紀末のガラス産業の重要なジャンルを形成するまでになっていきます。
しかし残念ながら,自分が創案したパート・ド・ヴェールの技法や技術を一切秘密にして,記録資料にも残しませんでした。

●アルベール・ダムーズ(1848~1926)

 パリに生まれ,陶芸家として活躍していたアルベール・ダムーズは1890年代に入ってから,パート・ド・ヴェールの技法に関心を寄せて,実験をしていきます。
1898年に十数点の花器や杯,鉢などを発表しました。それはレリーフをつけた美しい色彩の薄手のパート・ド・ヴェールでしたが,その後,彼は,この薄手の素地に「パート・デマイユ」と呼ぶ一種の低温溶融の七宝顔料を使った模様付けをし,無線七宝に似た文様を表現できる技法を開発しました。

●ジョルジュ・デプレ(1862~1952)

ベルギーに生まれ,エンジニアであったジョルジュ・デプレは,叔父のガラス工場を引き受けて発展させ,大きなガラス会社を作りました。1890年頃から,会社の技術を動員してパート・ド・ヴェールの試作を行うようになり,1900年のパリ万博に作品を発表して,好評を博しました。
制作の幅は広く,彫像,東洋の陶磁器を連想させる花器類,中国の玉をイメージした玉器や,またパート・ド・ヴェールのステンド・グラスも制作しています。

●アマルリック・ワルター(1859~1942)

セーヴル生まれのアマルリック・ワルターは,セーヴル国立陶芸学校時代にパート・ド・ヴェールの技法を学び,卒業後作品を発表し始めます。その作品をドームに評価され,ナンシーのドームの工房に招かれて制作をするようになります。
1919年にナンシーに自分の工房を設立して制作を始めます。
作品は,なめらかな肌が特徴で,古代ギリシャ末期の小人物像であるタナグラ人形や,小動物の小彫像,蓋物,ステンド・グラス,装飾板などを制作しています。

●アージー=ルソー(1885~1953)

セーヴル国立陶芸学校で学んだアージー=ルソーは,卒業後パリ近郊に自分の工房を持ち,パート・ド・ヴェールの研究を始めます。1914年にアール・デコ・スタイルの作品を出品し,やがて彼の作品は人気商品となります。
技法は,色ガラスの粉末に金属酸化物を混ぜて発色させる方法を採り,色調の幅が非常に広く,とりわけ光を透過したときの色彩が美しいものでした。したがって,ランプやランプシェード,キャンドルスタンドなどに秀作が多くあります

○アメリカの作家

●ルイス・ティファニー(1848~1933)

 金工及び宝飾工芸を家業とする家に生まれたルイス・ティファニーは,パリに勉強に行った後,1879年にティファニー・グラス・アンド・デコレーション商会を設立し,室内装飾等の仕事をしていました。その後1885年にはティファニー・ガラス会社を設立して,ハンドメイドのガラス製品を作り始めます。ファヴリル・グラスと名付けられたこれらの作品は,化学薬品に浸したり,薬品を蒸気にして吹き付けたりして,ガラスの表面に鈍い艶消しから鮮やかな光沢まで様々な効果を出したものでした。

 ティファニーの作品は,ガレやドームのようにガラスの造形的な可塑性を生かすというよりも,シンプルなシルエットに自然の形態を抽象的に描くものでした。外側または内側にラスターを掛けたラスターグラス,色ガラスの花紋を外側に溶着したミルフィオリ・グラス,透かし模様を付けたディアトレッタ・グラス,細長い繊細な脚を付けた鶴首花器,微妙な色光を見せるパステル・グラスなどがあります。
また,そうしたガラスの技法を使って,照明器具にも独自のジャンルを開拓しています。1880年代にトマス・エディソンが白熱電球を発明したことから,照明の分野におけるデザイナーたちの新しい挑戦が始まりましたが,ティファニーは早くから,アール・ヌーヴォー・スタイルにとって,電気が大きな可能性を持つことに気が付いていた一人でした。アール・ヌーヴォー・スタイルのランプの別名ともなった「ティファニー・ランプ」と呼ばれるステンド・グラス風のシャンデリアやスタンド,ラスター彩の花形ランプを多用したリリーランプなどの代表作を作っています。
また,ティファニーは,ステンド・グラスに社会的な需要があると気が付いていました。都市生活者の多くが窓の外に殺風景なむき出しの壁を見せつけられるという時代に,ステンド・グラスの窓は,美しい景色を見せてくれるのです。パステルカラーのステンド・グラスや,ガラス・ブロック,モザイクを手掛けました。とりわけティファニーのステンド・グラスは当時好評を博して,公共建築や教会,大邸宅などで使われました。

 ティファニーの作品は,徹底して典型的なアール・ヌーヴォー・スタイルでした。ヨーロッパのガラス工芸作家たちが,アール・ヌーヴォーからアール・デコへの展開に対応していったのに対して,ティファニーは最後までアール・ヌーヴォー・スタイルを守り続けました。ティファニーの死後,工房は,引き継いだマネージャーの死後に破産して解散しました。

5,アール・デコの代表的なガラス工芸作家

アール・ヌーヴォーは近代的性格を備えた美術運動でしたが,徹底した手作り志向が,古い生産システムからの脱却を不可能にしていました。そこにアール・ヌーヴォーの発展性の限界があったのでしょう。
アール・デコの時代は,生産システムの方向性が,完全な手作り志向による一品製作,つまりアートとしての作品作りと,機械化による量産を前提としたプロダクト・デザイン製品作りの二つに分類されていきます。
作り手の性格が,「作家」と「デザイナー」に明確に分かれていくのです。

●ルネ・ラリック(1860~1945)

ルネ・ラリックは,フランス北部シャンパーニュ地方のアイという村で育ち,終生をパリで暮らしました。16歳のときに,宝飾細工師ルイ・オーコックの見習いとなり,ジュエリーの仕事を始めることになります。

アール・ヌーヴォー期にはジュエリー作家として名声を得たラリックは,アール・ヌーヴォー・スタイルの流行が終焉を迎えると,コティ香水展のラベルと香水瓶を手掛けたことをきっかけに,ガラス工芸作家に転身します。1908年にガラス工場を賃借して本格的にガラス工芸に取り組み始め,1912年にガラス作品の個展を開いて以降,ラリックはガラス工芸ひとすじに専心し,アール・デコ・スタイルのガラス工芸の指導的なデザイナーとなっていきます。
ラリックは,当初から品格の高い量産品を作ることを目的として,大規模な工場生産に力を注ぎました。原型を蝋で作った精密な鋳型を作り,ほとんどの器を精密な金型によって複数生産していきます。
ラリックの作品には,無色透明のガラスに高いレリーフ像を型出ししたもの,淡色の色彩をぼかしてつけたもの,レリーフの上にエナメルを塗布して焼き付けたものなどがあります。乳白色のオパルセント・グラスの型押し,型吹きの作品も有名です。
当初は型押し,型吹きのガラス器類も,特にレリーフ彫刻の表現にはアール・ヌーヴォー・スタイルを踏襲していましたが,1920年代に入ると,時流を敏感に反映させて,幾何学的構成の文様や器形を採用するようになり,完全なアール・デコ・スタイルを確立させていきました。
デフォルメされ整然と単純化されつつも,なお植物等のたたずまいや雰囲気を大切に残すラリックの作品は,今もたくさんの人々を魅了し続けています。

●モーリス・マリノ(1882~1960)

ナンシー郊外のトロイに生まれたモーリス・マリノは,アンリ・マチスに代表されるフォーヴィズムの画家でした。1911年にガラス工芸に興味を持ち,研究,制作を始め,やがてエナメル彩色のガラス器を発表して絶賛されます。
以降,マリノはガラス工芸作家に転身し,自ら吹き,自ら削り,自ら彩色を施し,徹頭徹尾自分で制作した,迫力のある造形の作品を発表していきます。それは従来のガラス工芸作品の概念を打ち破るもので,実用性のある器というよりも,まさにガラスという素材による芸術作品そのものでした。
マリノのガラス工芸作品の人気は上昇し,熱烈なファンがありましたが,彼は量産とは無縁のアートの作家であり続けました。
戦争のために彼のガラス工場が閉鎖されてからは,ガラス工芸をやめ,再び画家として絵を描き続けました。

6,最後に ~なぜパート・ド・ヴェールが復元されたのか。

19世紀は,既に近代の社会構造が出現していた時代です。人口の都市居住比率が高くなり,社会階層の構成も大きく変動していきました。
このような社会の変化の影響をもっとも大きく受ける芸術のジャンルが工芸でした。工芸に携わる者が,技術革新を要求された時代だったのです。作家の性格も,芸術家から技法開発者へ,そしてデザイナーへと,多様な展開を見せていきます。
その技術革新の一つの方向性として,復元的な技術,リヴァイヴァルとしての技法が開発されます。発展した植物学,鉱物学等の知識を基にして,中世の技法,古代の技法が参照され,研究され,復元され,改良されていくというプロセスが,19世紀末の工芸の基本的な流れを構成しています。
中世の大聖堂の床を飾っていた象嵌タイル技法を,イギリスのミントン社が19世紀にリヴァイヴァルしています。オーストリアのウィーンでは,M・トーネット(1796~1871)が,曲げ木の技術を開発して,新しいタイプの椅子やテーブルを作り始めました。
そして,ガラス工芸の分野では,フランスのアンリ・クロが,1880年代半ばに,古代のパート・ド・ヴェールの技法に到達します。
19世紀末芸術の作家たちは,実体としての近代が既に成立している社会のなかで,過去の遺産を再開発し,それによって未来を切り開こうとしていました。
ほんとうに新しいものというのは,常にあり続ける何かであり,過去からの影響を免れ得ないもの,そしてそれに挑む勇気を強いる何かのようにも思えます。19世紀末のアール・ヌーヴォーのガラス工芸作家たちが,古代に途絶えた技法を復元したのは,産業革命の全盛期たる時代に,特に発達した鉱物学等の技術から古代の知恵を検証するという,時代からの声に応えた新しい技術革新のためだったのでしょう。その研究の成果を当時の作家たちが分け合えなかったがために,途中で道が痩せてしまった経緯はあっても,それは確かにガラス工芸が未来に続く新しい道となり得たものだったと思います。
幸い,後世のスタジオグラス運動へと,ガラス工芸のバトンはつながっていき,現在,私たちは,キルンワークでパート・ド・ヴェール技法の作品を作ることができます。それも,科学技術が大いに発展し,技法も研究,開発,発表されている現代は,より手軽に作品作りが楽しめるようになりました。吹きガラスなどの,キルンワーク以外のガラス工芸でも,19世紀末のガラス工芸作家たちが開発した技術をベースとして,更に発展させた,素晴らしい作品が作られ続けています。
今,バトンは,私たちの手のなかにあります。私も,たくさんの作り手の努力によって受け継がれてきたものづくりのエッセンスたるものを受け取り,そして,現代を生きる作り手のひとりとして,形にしていきたいと思いました。

 参考文献

アール・ヌーヴォー,アール・デコのガラス  由水常雄著  平凡社

アール・ヌーヴォー 世紀末に生まれた空前の美術状況
ウィリアム・ハーディ著  野中邦子訳  美術出版社

アール・デコ <一九二五年様式>の勝利と没落
ジウリア・ヴェロネージ著 西澤信彌,河村正夫共訳  美術出版社

世界美術大全集 世紀末と象徴主義  小学館

なごみ 2010年7月号
特集 宝飾とガラスに咲く花 日本の植物とルネ・ラリック  淡交社


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